白真弓肥太右衛門
初心者から上級者まで幅広く親しまれている白川郷平瀬温泉の「白弓スキー場」。この名前は一般からの応募によってつけられたものですが、それは白川郷で生まれ育った幕末の相撲力士「白真弓肥太右衛門(しらまゆみひだえもん)」に由来しています。
白真弓は文政12年(1829)頃、白川郷の木谷集落の與兵衛(東屋家)内、勇作の長男として生まれ、幼名を勇吉(後に奥右衛門)といいました。嘉永6年(1853)11月場所で初土俵(東張出前頭)を踏み、慶應2年(1866)に年寄「浦風」を襲名、明治元年(1868)11月9日に現役中に死去しました。
白真弓は幼少のころから並外れて旺盛な食欲の持ち主で、大きな体格と怪力の持ち主だったとされています。8歳で自家製の硝石(火薬の原料)の俵15貫目(約56kg)を、軽々と2階まで運んだといわれています。
22歳の頃高山に出て、味噌、醤油、酒を製造販売する大店「大阪屋」に奉公します。ここでもいかんなく怪力を発揮、米俵5俵を一度に担いで運ぶくらい朝飯前。彼の怪力ぶりは町中の評判だったといわれます。定かではありませんが、この高山で飛騨郡代であった父に従い少年時代を過ごしていた年下の山岡鉄舟(当時、鉄太郎)と出会い、鉄舟と親しくなって彼に随行するかたちで江戸に出たとする興味深い説もあります(白真弓に関する資料はあまり残っていませんが、小説『轟く土俵 小説・白真弓肥太右衛門』にそのことがおもしろく描かれています)。
いずれにせよ郡代の父の死にともない鉄舟が江戸に戻ったのと同じ嘉永5年(1852)、勇吉は江戸に出て、浦風林右衛門の弟子になり白真弓肥太右衛門を名乗ることとなります。身長は6尺8寸5分(約208cm)、体重40貫(約150kg)あまりの、白川郷出身の立派な江戸相撲力士の誕生です。
その怪力ぶりは土俵でも見事に発揮され、とくに「突の手」が得意でしたが、そのあまりの強さのため、この手をつかうのを禁じられていたほどでした。しかし外国人と相撲をとり負けそうになったとき、行司の「突の手許す」の叫びで、相手を猛虎のように突き倒して勝ちを収めたと伝えられています。
かような白真弓の怪力ぶり、なかでもそのエピソードで一番名高いのは当時の「黒船」騒動にまつわるものでしょう。安政元年(1854)、ペリー来航の折り、米を米艦に運ぶにあたって何人かの相撲力士が奉仕することになりましたが、白真弓は背に4俵、胸に2俵、両手に1俵ずつ計8俵(当時1俵に5斗、およそ計600kg)を一度に運んだそうです。びっくりしたアメリカ人がどうしてそんな力があるのか彼に訊ねると、白真弓は「日本人はうまい米を食べ、米からつくったうまい酒を飲むからだ」と答えたといわれます。





人気のあった白真弓は多くの姿で描かれ、今に残されています。