解説

この場所は文明年中(1469年~86年)嘉念坊九代目明教が当時の新興勢力である帰雲城主内ケ島氏との争いに敗れ自害した地とされています。

飛騨における真宗道場の起源鳩谷道場を拠点に布教を始めた嘉念坊善俊が弘安5年(1282年)に荼毘したのち、道場を飯島に移し正蓮寺と号し、九代明教に至るまで熱心な門徒らに支えられ、嘉念坊の影響力は飛騨一円に広がりを見せていました。一方室町幕府八代将軍足利義政の命をうけて牧戸城を拠点に白川郷進出した内島氏はさらに北の帰雲の地に居城を構え次第に勢力を拡大し正蓮寺との勢力争いが勃発しました。戦いに敗れた明教は一子亀寿丸(2歳)と乳母、弟子1人と卒塔婆(そとうば)峠辻付近の樹林に逃れ隠れ住みましたがついに内ケ島軍に発見され、明教はこの地で自害、ここに善俊以来200年、白川郷に掲げた法灯は消えさりました。子亀寿丸は、乳母、弟子とともに越前に落ち延び永平寺に入り兼入と称し、飛騨真宗中興の僧「嘉念坊十代明心」となる。

現地に設置している説明案内板は岐阜県清流の国ぎふ推進補助金を受けて整備したものです。

概要

種別 史跡[村指定]
指定年月日 昭和53年6月15日
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