むかしは、野谷(のだに)村から椿原(つばきはら)村へ通じる道が、白川本街道でした。その道路沿いに馬狩(まがり)村がありました。古いむかしから開かれているところですから、六十人あまりの人が住み、田畑もたくさんありました。
「なんまんだぶつ」「なんまんだぶつ」
声高らかに聞こえてくるのは、ここのお坊さんゴンとダンの念仏です。ゴンとダンは、信仰に厚いばかりでなく、百姓仕事にも熱心でした。また、心配ごとがあると、何でも相談にのってやれる心のやさしい、慈悲深い人でしたから、村人たちからたいそう慕われていました。
ところが、そんなりこうなお坊さんであるのに、ただ一つだけ困ることがありました。おかしな話ですが、お経を知らないのです。いつも、「なんまんだぶつ」という念仏だけで、お寺を守っていたのです。
今日は四月八日、オシャカさまの誕生日です。白川では一番雪の多いところですから、まだお寺のまわりには、雪がいっぱい残っています。そこへ村人たちがお参りにやってきました。春の仕事もまだ始まらない時期でもあるので、お経のないお参りがすむと、雑談に花を咲かせ始めました。
そこで、名主の久左衛門(きゅうざえもん)は、
「なあ、みなのしゅう、寺参りをしてもお経のないのはやっぱりさみしいな」
「うん、そうやぞ」
「どうじゃ、ゴンとダンに金沢へ行ってお経の修行をしてもらえんかなあ」
と話をもちかけました。日頃そのことを気にしていたゴンとダンは大喜び、村人も賛成しました。
今日は、四月二十五日、ゴンとダンの旅立ちの日です。三方岩は真っ白な雪におおわれていました。でも、暖かい春の日ざしを受けた雪はどんどんとけて、馬狩川を白くにごらせていました。
卒塔婆(そとうば)峠の登り口には、地蔵さまがあります。ここまで、村人たちは大勢で見送りました。
「からだに気をつけてな」
「かぜをひくなよ」
などと、思い思いのことばにはげまされて、ゴンとダンは馬狩村をあとにしました。
金沢への道は遠く、歩いて行かなければなりません。まず難所は、馬狩川を下ってクルスへ出るところです。“四十八瀬(しじゅうはっせ)の馬狩川”と言われるように、川を四十八回も渡らなければなりません。素足にわらじばきの姿では、雪どけのつめたい水は二人の骨身にこたえました。
やっと椿原に出た時には、もう太陽は西にかたむきかけていました。
芦倉向(あしくらむか)いを通り、加須良(かずら)川を横切るころには、もうすっかり暗くなりました。出先(でさき)峠のあたりまでくると、腹がへり、つかれが出てどうすることもできません。
と、その時、向うの方に灯が見え、ろうそくの光でしょうか、障子にゆらゆら映っていました。ゴンとダンは、一晩この家に泊めてもらおうと近づきました。
大きなケヤキの木があって、清水が流れているのか、チョロチョロと快い音が伝わってきます。その横には、軒先のくずれかけた合掌造りの家がありました。
ゴンは入り口の戸をたたいて、「こんばんは、こんはんは」と呼びました。
返事のない代わりに、女のすすり泣く声が弱々しく聞こえてきました。どうしたことかと不審に思いながら、そっと戸を開けました。見ると、横になっている人の前で、女の人が泣いているのです。衣を着た旅姿のゴンとダンに気づいた女の人は、泣きはらした目をあげて、
「実は、私の父が急に病を起こして、こんな姿になってしまいました。見ればお坊さんのようですが、どうか私の父のために、お経をあげていただけないでしょうか」
とたのみました。
慈悲深いゴンとダンは、お経を知らないのにことわることができません。言われるまま案内されて、ふすまを開けると、粗末ではあっても、ちゃんと仏壇があります。
ゴンは仏壇の右に、ダンは左に正座しました。二人は数珠を手にかけ、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつー」と、いつものように何回も念仏を唱えました。が、お経は出てくるはずがありません。でも言い訳もできないのです。
その時、ダンは仏壇の下の穴から一匹のネズミが頭を出しているのを見つけました。
「でたー、でたー」
と、ダンはすかさずお経のふしをまねて談じ始めました。タイミングよくゴーン、ゴーンとゴンが鐘をたたきました。すると、その物音におどろいたのか、ネズミはすっと頭をひっこめました。ダンはそのようすを見て、
「ひっこんだー、ひっこんだー」
と談じます。ネズミはどうしたことか、出たりひっこんだりするので、それに合わせて、
「でたー、でたー、ひっこんだー」
と、これまたくり返すのです。ゴンは、何も意味が分かりませんが、ダンにまねて真剣にうなっています。
一方外の方では、穏やかでないことが起こっています。手ぬぐいでほおかむりをしたこそドロが、こっそりこの家をねらっていたのです。まず、中のようすをうかがおうと思って、つばをつけた指で外から障子に穴をあけ、そっとのぞきました。
すると、「でたあー、でたー」と声がします。
さては気づかれたかと思って、後ろへ下がると、今度は、「ひっこんだー、ひっこんだー」というのです。
「でたあー、でたあー、ひっこんだー」
ネズミの様子を見ながら、心をこめて唱えるゴンとダンでしたが、きっとその気持ちが天に通じたのでしょう。こんな気味の悪い家はまっぴらごめんだと、こそドロは一目散に逃げていきました。
もうその家はありませんが、最近まで大きなケヤキの木が残っていたということです。