「今日は、ひとりでどこへいきゃるよ」
野良仕事に向う又佐(またさ)が、権次(ごんじ)に声をかけた。
権次は、兄の五衛(ごえい)と共に弓の名人で、狩りで身を立てていた。いつもだと、兄弟の五衛と権次の二人で狩りに行くのだが、今日はあいにく兄の五衛はかぜぎみだった。
「大棚へ行って来るわい」
権次は、かろやかに返事をした。
大棚に行くには、荻町村からまず戸ヶ野へ登る。あたりは栗林で、そよ風は今をさかりと花粉をまき散らしている。秋になれば栗拾いでにぎわうところだ。ここから尾根づたいに、島ノ上・カラ松・大棚へと続く。
大棚というのは、文字どおりの高台の平地で、棚のようになっている。そのほぼ中央に大棚の池といわれる沼地があり、ところどころに管(すげ)がおいしげっている。まわりは、うっそうとした林におおわれ、鳥やけものの水飲み場になっている。古木に身を寄せて、じっと獲物を待っていると、たいくつする暇がないほど鳥やうさぎなどがとれた。
権次は、これからそこへ向うのである。
「わりゃためらえや、このごろ大山猫が出るってこっちゃで」
又佐がこんなことを言ったのにも、わけがあった。村人のうわさによると、大山猫というやつは、とんでもないやつで、小熊ほどもある体に松ヤニをつけ、砂の上をころがりまわる。それを何回もくりかえして、体じゅうが亀の甲のようになっているという。しかも化けては人々を悩ませるということであった。
権次も、このうわさを知らぬわけはなかったが、何といっても弓の名人、狩りの神様と言われているから、怖がるわけにはいかなかった。
足早に山に向う権次に、愛犬シロがしっぽをふりふりついていった。
兄の五衛は床(とこ)にふせっていたが、多少気分もよくなったので、床をはなれて昼飯をすませたときであった。キャンキャンというシロのただならぬ鳴き声で、五衛はおもてへとび出した。昼下がりの太陽の光はまぶしい。シロは、しきりに五衛の着物のすそを口でくわえて引っぱりながら、何かをうったえるのである。五衛は、急に胸さわぎがした。
「権次に何事か起こったにちがいない・・・」
さっそく身支度(みじたく)をととのえると、愛犬クロと共にシロの後にしたがった。歩きなれた山道は、さほど五衛の身にはこたえない。山の奥へ奥へと入って行った。
ようやく大棚の池まで行くと、何と静かなことだろう。いつものようすと全くちがうのである。
「何かあるぞ」
感じながら狩り場へ来てみると、どこにも権次の姿は見えない。かすかにクンクンならすシロの鼻息を耳にしながら、しばらく行くと、どこからともなく生あたたかい風がスーッと吹いてきて、ほほをなでた。すると、たちまち一点の黒い雲が広がり、あたりは真っ暗になってしまった。荒れ狂う風に木々はうなりをあげ、雪が舞い始めた。思わず五衛が立ちすくむと、シロもクロも五衛の股に入り、しっぽを下げてぶるぶるふるえている。雪はみるみる積もって、腰ほどにもなってしまった。
その時、はるか向こうにかすかな明かりが見えだした。
「こんなところに、家はないはずだ・・・」と思いながら、やっとたどりついてみると、お助け小屋とも思える小さなみすぼらしい家である。
五衛は、障子のやぶれから中をのぞいてびっくりした。頭の毛をふり乱した老婆が糸をつむいでいた。ギョロリとした大きな目玉は、ローソクの光に照らされて、ギラギラ輝いている。グッと低い声でうなるように聞こえるのは、歌であろうか。
五衛は、背筋が寒くなるのを覚えた。さては弟の権次、この化け物にたぶらかされたにちがいない。五衛はすばやく背中の矢筒から矢をぬきとると、弓をつがえて満月のごとくふりしぼり、老婆めがけてはっしと射た。
「やった」
と思ったが、老婆は身動きもしない。
弓の名人と言われるこのおれが、不覚をとるとは誠に残念。今度こそはと、心臓をねらった。しかし、何の変化も起こらない。頭を、目をと、ねらい所を変えて矢を射る。そのうちに最後の一本、鏑矢(かぶらや)*1だけになってしまった。その時、ふと、「化け物は、明かりをねらえ」という昔の人の言葉を思い出した。
*1:[鏑矢]木・竹の根または角(つの)で「蕪(かぶら)」の形をつくり、これを矢の先にしたもの。
五衛は、鏑矢を取り出すと、祈る思いで矢の先につばをつけた。そして、ローソクの明かりにねらいを定めた。
老婆のまゆが。ぴくりと動いたかに見えた。
力いっぱい射た矢は、一直線にローソクの炎をつきぬいた。
「ギャー」
天地もさけんばかりの音とともに、空が真っ二つに割れて青空が広がった。あたりの雪も家も消え失せ、太陽が輝きはじめた。
目の前には、大山猫が目を射ぬかれて死んでいた。まわりは折れた弓矢が散らばっており、無残にも弟権次が八つざきにされていた。
五衛は泣いた。大声を上げて、男泣きに泣いた。この時の涙が流れて五衛谷となった。今でも、水くみのできるところが、五衛ミンジャ*2として残っている。
*2:[ミンジャ]白川村の方言で「水屋」の意味。
おわり