最終更新日:2018年10月05日

荻町城跡の画像

解説

 荻町城は世界遺産白川郷合掌集落を見下ろす台地先端に選地しています。この地は庄川と宮谷・牛首谷からの河川が合流する地点であり、標高540mの比較的緩やかな台地で、山麓からの比高は約60mを測ります。

 戦国時代の白川は室町将軍の奉公衆である内島氏が支配しており、帰雲城を居城としていました。庄川沿いに南北に貫く白川街道上に帰雲城を防御するため南側には日崎城、新渕城、牧戸城が配され、北側には荻町城が配置されていました。荻町城からは西方の馬刈峠を、東方の牛首峠を監視することができます。

内島氏の家臣として山下氏、尾上(神)氏、川(河)尻氏の3氏のいたことが記録に残されています。この山下氏は当初飛騨国司姉小路氏に仕えていましたが、のちに内島氏の家臣となり、氏頼、氏規、時慶の3代が荻町城主として入れ置かれました。

 城の構造は背面防御として台地続きを切断する堀切と土塁が構えられ、その内側を城域としています。兵の駐屯地となる曲輪は単郭で極めて小規模な山城です。曲輪の西南隅部は一段高く削り残されており、櫓が配置されていた可能性があります。また、北、西、南の三方は切り立った絶壁で敵の進入を阻んでいます。この三方の崖面は自然地形をさらに人工的に削り込んだ切岸と呼ばれる防御施設です。

 曲輪内の構造については平成6年度に富山大学によって発掘調査が実施され、掘立柱建物の一部が検出されています。居住施設ではなく、倉庫のような簡単な建物であったと考えられます。

 ところで戦国時代の山城は居住する施設ではなく、戦争の際に立て籠もる詰城でした。普段は山麓の集落に居館を構えて居住していました。荻町城の場合も麓からの比高も高いものではなく、恐らく山麓のいずれかに居館を構えていたのではないかと考えられます。荻町城の規模では立て籠もるような詰城ではなく、白川街道を監視する目的として築かれた境目の城として機能していたものと考えられます。

 お城と言うと、天守閣や石垣、水堀をイメージされますが、それらの大半は慶長5年(1600)の関ケ原合戦後に築かれた近世城郭の構造です。戦国時代の城郭は基本的には石垣を設けない土造りの城郭です。天守閣もありません。櫓も井楼組の簡単な施設で、瓦葺きの建物もありません。土塁、切岸、堀切などの土木施設こそが中世城郭の姿です。

 荻町城跡は小規模な山城ですが、戦国時代の山城としての構成要素としての曲輪、切岸、堀切、土塁が認められます。また、山城からの眺望も抜群で、構造、立地ともに戦国時代の山城の典型例として評価できます。

 

※現地に設置している説明案内版は令和3年度岐阜県清流の国ぎふ推進補助金を受けて整備したものです。

概要

種別 史跡[村指定]
所在地 白川村荻町528番地
指定年月日 平成15年5月23日